伝説之倉賀野の記事一覧

皇紀二千六百年 伝説之倉賀野 (昭和十五年十一月五日発行)

 編者 徳井敏治氏は、昭和八年から十六年まで倉賀野尋常小学校(現・倉賀野小学校)の校長先生をお務めでした。その後も北支大同日本国民学校の学校長、多野群八幡村や水上町の教育長を歴任されました。先生が、誰からも慕われ尊敬されるお人柄であったことは、先生の没後に発行された『徳井敏治 追悼集』からも良くわかります。
 この『皇紀二千六百年 伝説之倉賀野』は、徳井先生が倉賀野小学校在任中の昭和十五年に「皇紀二千六百年記念事業」として倉賀野城の伝説を調査し編集されたそうです。「伝説は我々の祖先の尊い宝物であり、我々はこの残されし宝物を健康に育てあげる責任がある」(…
倉賀野の町にも鉄道が敷設され、停車場さえ出来たその頃の事です。
   
 明治も初めの頃とて、今の様に田や畑があったわけでもなく、まだまだ荒地もあれば、所々には雑木林や森林までもありました。そしてこの荒地や雑木林は狐狸の住家となって、当時の人々に種々の話題を残しております。ちょうどこの頃のある夜の事です。
昔々、 神天皇様の御子に豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、
活目入彦命(かつめいりひこのみこと)の御二方がありました。
 御二人共大変お賢い方でしたから、天皇様はどちらのお方に御位をお譲りしたらよいかわかりませんでした。
 そこで天皇様はお二人のお夢によって後継をお定めになろうとなさいました。

 その晩、お兄様の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、三諸山(みむろやま)に登って三度槍を取ってお突きになり、また太刀をお振いなさった夢を  御覧になりました。
 また御弟の活目入彦命(かつめいりひこのみこと)は三諸山に大きな網をはって、澤山の雀をお捕りになった夢を御覧になりました。そこで天皇様は豊城入彦命(とよきいり…
天下麻のごとく乱れた戦国の世も、元和な春と共に世は太平を謳歌する時代となった。
甲阪新之助は、とある旗本の嫡男に生まれた。父は旗本八萬騎の四天王の一人として多数の部下を統率す
る身であった。その性質は謹厳そのものの古武士、大阪夏冬の陣に其の名をうたわれた勇将にて、暇ある毎に語り聞かすは当時の武勇伝であった。新之助の生みの母は早逝した。父は後添を貰った。後添には一人の娘がいた。名を桃千代と呼び母子は新之助と晴れて夫婦になる日を楽しみにして待っていた。    

 しかし、運命は皮肉にも新之助の心は、いつか許婚とは反対な邸の門番の娘
   
お露にあった。「忍ぶれど色に出にけり我が恋は、物や思ふと人の問うまで」…
今こそ跡も形も無い所だが、昔ながらの言い伝えを残しているものは随分多い。人は今、現在形に残っている物は、それを失うまいとしてつとめ、不幸既に失われた物に対しては、当時の人々の無知をののしったり、残念がったりしてひとしお懐かしむものである。これに似たものが南町のほぼ中心にある。
   
 それは今の屋台蔵の所である。その昔、倉賀野神社の認可申請に当たっては、五社合併ということが是非とも必要なことであった。


 白山神社と弥栄神社とは随分前からここ南町の人達の守神として信仰を集めていたが、いよいよ飯玉様に移されることとなりとうとう実現されたのであった。神社の建物は取り壊され、大木は切り倒された。
 この切り倒され…
正六は倉賀野の町から取り残された様に、町続きを離れて純朴な村人によって平和な生活が続けられております。
 この正六にお堂があって、そこに東面して一つの薬師堂があります。今は荒れ果てて堂守さえおらず、村の子供達の遊び場所となっております。この薬師様が近郷近在はおろか、遠く他国の人々の信仰を集めていた薬師様だと誰が想像出来ましょう。この薬師様は眼病に御霊験をうたわれたのです。ことに一升団子を上げて願かけする時は限って御利益があり、失明の悲しみに嘆く人々にさえ救いの光明を与えるというのです。評判は評判を生んでその盛り振りは実に大したものでした。ことに寛政の頃には他の神社仏閣にも比類ない有様でした。
 子に導…
昔々、倉賀野の城が出来たそれよりも、まだずっと昔のお話です。
 御城の辺りから西烏川にかけて、昼なお暗い程に樹木が茂っておりました。その山の中に、それはそれは恐ろしい怪獣が住んでおりました。
 よくあることですが、この怪物は村の作物を荒し、その上に、三年おきには娘を奉らないと荒れるのです。三年目の春の祭に近い日になると娘のいるお家では、白羽の矢が立ちはしないかと、そればかりが心配で、いたたまらない程でありました。
 ところがとうとうその年は白羽の矢が、お庄屋さんの家に立ったのでした。
お庄屋さんの驚きと悲しみは大変なものでした。しかし、どうする事もできません。ただ恐る恐るその日を待つばかりでした。
 すると、あ…
加賀のお殿様と言えば百萬石のそれはそれは偉いお殿様でした。この加賀様に仕えていた飛脚がありました。
 加賀の国から今の東京、即ち昔の江戸へ、又江戸から加賀の国へお殿様のお手紙を持って行って、急なお使いをするのが役でした。
 加賀から江戸迄と言うと3百キロもあります。汽車や電車、自動車といった乗物は一つもない時でした。「ほい かごほいほい かごほい。」と、言って通るお駕籠くらいが何よりの乗物でした。歩いて行けば五日も六日もかかるのが普通でした。
ここ倉賀野城は、その昔、源頼朝の家臣 倉賀野三郎高俊(くらがのさぶろうたかとし)に始まってより、倉賀野城主金井淡路守(かないあわじのかみ)が小田原に討死する天正年間まで四百有余年、中仙道枢要の地として、ある時は、箕輪十五万石の縁戚となって街道筋の要鎮となったり、またある時は、彼の川中島で有名な、甲斐の武田信玄に敵して争う等、昔を偲ぶ幾多の物語があった。
しかし、その物語を抱擁し育てて来た城も今は既になく、殊にここ二,三年の前より殷賑産業の影響を受けて、城址は全く一変してしまった。
 草木の茂みは片付けられ、土は昔ながらの香を陽に発散するがごとく一鍬一鍬掘り返され、そして平坦になって行った。
 間もなくこの…
昔から狐や狢が、よく人にのりうつったとか、彼の人にはおさきがついているのだ等、面白いというか、不可思議というか、全く
半信半疑の言い伝えが、世の中には随分あります。

 この永泉寺にも、これに似た話があります。否話どころか、とうとうそれが為に命をとられたのだそうです。
 「永泉寺の古手狢」の伝説は余程遠い所まで知られている様ですが、この話もやはりこの頃の事だったのでしょうか?

 今こそ寺の附近は立派な田や畑ですが、その時分は、どうしてどうして土手もこんな訳のものではなかったそうです。寺の前から西北にかけて、一丈も二丈にも及ぶ大規模な土手が廻されてあって、しかも不気味な藪、雑草で覆われていたとの事です。子供は近…
今から、ざっと四百年ばかり昔の事でした。
正六と言う土地の人々は、不思議な力を御持ちの不動様を信仰しておりました。人々は余りにも、あらたかな御不動様の霊験を広く世の人々にも伝えて、ともに礼拝し、御力にすがろうとして、御尊像を安置した一つの小さなお堂を建てて、祈祷所と致しました。堂守も出来ました。人々は木の香も新しい立派なお堂を中心に集まっては、礼拝しました。
 礼拝は年を追って盛んになって行きました。

 ところがある時、堂守に占いの上手な人が出ました。家相人相さては紛失占いなど、実によく当たるのでした。次第に噂は他国にまで響きましたので、思わぬ遠方から尋ねて来る人もあり、お堂はいつも大繁盛になりました。

 …
弁天様に池はつきものであるとかいわれている。なるほどそういわれて見れば、弁天様のある所には必ず池や沼がある様です。
そして、その池や沼には、たいがい龍や蛇に関する伝説が残されている様です。
 
 「火の無い所から煙が出ない。」とのたとえもある様に、全くの伝説として一笑にふせない何ものかがある様です。科学の力では到底説明出来ない神秘的なものがある訳でしょう。
 これについて、つい最近の事ですが、八十年毎にお開帳するある所の観音様を、是非見たいと言うので、無理にお願いして入ったところ、何の理由もなく、その方は顔面に外傷してしまった。まだそれよりも不思議な事には、それと同時刻に家にいた奥さんが鼻血を出したとか、こ…
「信仰には不思議な霊顕(れいけん)がつきものである」
 今は昔、安政二年春三月、倉賀野町が火災にあって、見る影もない焼野ヶ原と化した事がある。人々は、百姓九右衛門の宅が火元だというので、九右衛門火事と言い伝えている。
 時もあろうに、ちょうどお彼岸の中日。
  「火事だ!」と、叫ぶ声は人々を恐怖のどん底にぶち込んだ。ただでさえ風があったのに、火事場に巻き起る風は、うなりを呼んで物凄く。悪火とでも言うのか火勢ますます強く、見る見るうちに広がって全く手の下し様もない。
 女子供の泣き叫ぶ声、人畜の傷ついてうめく声、この世の声とも聞こえず、火炎地獄さながらの有様であった。
 今も尚、一丈も深い古井戸の底から掘り出される下…
  今を去る百五十年前、天命の頃上州倉賀野在に、徳兵衛さんというお百姓さんが住んでいました。
 徳兵衛さんは大変熱心なお百姓で、毎日毎日精を出して働きました。そしてお金がたまるのを楽しみにしていました。徳兵衛さんには只一つ欲しくてたまらないものがありました。
 それは外でもありません。一頭の馬でした。徳兵衛さんが毎日毎日一生懸命鍬を振るい金のたまるのを楽しみにしていたのは、この為でした。やがて幾年か経ち、徳兵衛さんは、沢山なお金がたまりました。
そこで欲しくてたまらない馬を一頭買い求めました。これから後は田圃や山へ行く時は、必ず可愛い馬をつれて前よりは一層一生懸命働きました。

 それはある冬に近い秋の朝でした…
 それはある夏の日の午後だった。うだる様な暑さに身の置場所もなく、足にまかせて訪れるともなく、とある古老の宅を尋ねた。
 老いたる身は、見るからにやせていて、この暑さでもかえって涼しい様にさえ見受けられた。
  「どうです、面白いお話はありませんか。」
 古老「毎々の日照りで、そればかりが苦になって話どころじゃないよ。」
 「そうですね、この分では田も植わりそうもないね。」
 古老「駄目だ駄目だこんな時こそ貯水池か大きな沼でもあってくれれば大助かりだが。」

 「弱ったものですね。」

 古老「今考えて見れば、あの穴池だって埋め立てしないであのままにして置けばよかったにな」
 「穴池」「穴池!」
 「面白い名だね、何か理由があるのですか…
伝説の国土上毛野はまた、古墳多き国である。
 その昔、崇神天皇の皇子豊城入彦命は、東国を鎮めなされる為にこの毛野の原野にお降りになった。
 大和朝廷東方発展の根拠地 毛野の国(けぬのくに)は、また当代文化の中心地であった。古墳の国上毛野。
 国一帯に散在する数多い古墳の姿は、文化史上に燦として輝く、古代毛野文化の名残りである。
 古墳文化の発達はここ倉賀野の町にも名残を留め、この辺り、浅間山、大鶴巻、小鶴巻等、合して一大古墳群を成している。
 町を西に出外れて約五町、中仙道を左に折れる細い田んぼ道をたどれば浅間山にわけ入る事が出来る。
 
浅間山古墳。
 面積一町二,三畝、南方烏川に面し、前方の高さ二十二尺、後円部四十六尺、…
 その昔、三光寺様は養報寺の隠居寺でありました。
 その頃は、今のお宮より、もっともっと大きな立派なお寺であったそうです。所が、夜になると白い狐が、お寺の廊下にいたり、または人を化かしたりするので、大変困りました。そこで、町の人達はどうしたらよかろうかと毎日の様に考えていました。ところがあるお百姓さんの考えでその狐をお祀りする事になりました。
 
 その頃の江戸、今の東京へ行って正一位冠稲荷と言う立派な位をいただいて来て、お宮を建ててお祀りすると、不思議にそれから白狐が出なくなったと言う事です。
 そのお宮が出来て間もない頃の事です。
  倉賀野を烏川一つ隔てて南に阿久津村、この村に続いて木部村がある。今からおよそ三百五十年程前、ここに木部駿河守範虎(きべするがのかみのりとら)と言う殿様があった。そして烏川以南の地にその威勢を振っていました。

ところがちょうどこの頃、甲斐の武田信玄が次第に上野国に軍兵を進め、深澤、吉井の砦を落し、河内、塩川城も続いて落し、更に木部、山名、根小屋に迫ってまいりました。この事をいち早くも予期していた箕輪城主長野業政(ながのなりまさ)は、やがては我が居城にもこの勢いの及ぶことを恐れて、万全の計を立てたのであった。とりわけ衆目を引いたのは、業政に十二人の娘があったが、それぞれ近城に嫁がせて縁先とした事で…
「お獅子」を知っているでしょう。あの笛や太鼓に合せて身振り手振り面白く舞い狂う獅子舞は昔と言っても、明治の始め頃より田子屋にあったのだそうです。
 ちょうどその頃、大江戸を荒した恐ろしい疫病が次第に広がって、とうとうこの倉賀野の町にもおよんで来ました。
 まだ世の中の進んでいない頃、よく「ちょんまげ」を結んで往来を通る頃のことですから、もちろん、医学や衛生が進んでいるはずがありません。ですから町の人々はどうする事も出来ません。

 今日は上町の誰々、今日は下町の誰々と死亡した人の名が次々と伝わって、人々の心を暗くするばかりでした。人々は固く表の戸を閉じてただただ神や仏に祈ってばかりいるのでした。町人の顔色に…
   正六には、浅間山を巡って伝説が少なくない。お堂前の墓地がその一つである。
 浅間山に入る田んぼ道を右に折れるとやや広い田んぼ道となる。その道のかたわらに、このお堂は、鎮座ましますのであるが、何しろ風雨にたたかれ、時に野良犬の宿ともなるこの祠(ほこら)の姿は、哀れに傷ましいものがある。屋根、扉、濡れ縁、柱、その一つ一つがすべて値打ちのある骨董品である。だが素朴な村人の尊心は集って、お堂であり、墓地であるこの地に、美しいものを作り上げている。このお堂前が墓地になったについて伝わる言われが面白い。
もとは木部城主に仕えていた田口次郎左衛門辰政も、今は官を退いて年久しくなりました。寄る年波に頭髪も白さを増して参りましたが、日頃心穏やかな辰政は、何の苦もなくその日を楽しんでおりました。
 辰政は、大変神信心の厚い人でした。
 ある日の事、今日も一日の仕事を終えて、鍬を肩に我が家へ来かかりました。すると、1羽の鳩が舞い込んでまいりました。不思議に思って鳩を見守っておりますと、二度三度軽く舞った鳩は、さあっと屋根に止まりました。ぴかっと一条の光が眼を射ったかと思うと、鳩の姿はすうっと消えてしまいました。
佐野から烏川が倉賀野の方へ回り込むところを萬福寺と言います。その萬福寺には昔大きな寺がありました。その寺の名がいつか土地の名となったのでしょう。その萬福寺の下は烏川の水が曲り込んでとうとうと流れ、それがまた深く淀んで物凄い底知れぬ青さを湛えていました。

 ここを通りかかる船は時々その波にのまれて沈みました。ところがこの船が沈むについては不思議な事がありました。
 ちょうど船がこの寺の下へ差しかかると、どこからともなくボシャンボシャンという音がして来ます。
 その中からぬぅっと、大きな手が出ます。そして不気味な声を出して「ひしゃくをくれ、ひしゃくをくれ」と言います。そして船頭が柄杓を与えると、それを受取るや…
話は徳川の昔にさかのぼる。享保三年といえば紀元二千四百六十三年で今より百三十年前の頃である。
 その頃でも倉賀野の宿は随分繁昌していたと言われている。
 エイホーエイホー駕籠が行く、道中笠の旅人の群が幾群となく過ぎて行く、こうした旅人を相手にした商売が軒を連ねて賑わっていたのである。

 この賑やかな宿に相応しくないものは宿の中程に架けられた、みすぼらしい土橋の姿である。大水の出る時など、いつも流されてしまうのであった。
 宿場の傾城達の美しい拠金によってこの土橋を立派な橋に改築しようという事を、時の道中奉行の殿様に願い出した。
 
 その頃は傾城の数も二百人になろうと言う豪勢さであったという。
 御奉行様は大変お喜びにな…
今より凡そ千二百年程前、人皇四十五代。
 聖武天皇の天平九年に、行基菩薩という大変お偉いお方がありました。この人は大変情け深いお方で、世の中を旅をしながら困った人を助け、悪い人を戒めたりして、この中仙道を歩いて参りました。

ちょうどこの町の安楽寺前まで来た時は、日はとっぷりと暮れ、それに雨さえ降って参りましたので、宿を尋ねたがそれらしい家も無く、さあ如何しようとお考えになりました末、ちょうど折よくそこに薬師の岩屋がありましたので、その中で一夜を過ごそうとなさいました。

 穴の中へ入って休んでいて急に仏像を彫る事を思い立ち、一心に刻みました。
   上州のからっ風は南端の倉賀野の宿に来ても名物である。赤城颪と言うよりもむしろ浅間に近い冷たい風が、吹き初めると三日位は必ず吹き募る。たんたんとした中仙道のアスファルトを風は尚速く滑る。家々の軒を揺すり砂を捲いて風は隼の様に一本の街道を行く。その風がこの宿をぬけるところで流れる様に二本の道を描いて、右に左にまた新しい砂を捲いて走り去る。右中仙道、左日光道その追分に風に揺すぶられて立つのが冬の閻魔堂の姿である。明治の末頃まではお作さんと言う尼さんが留守をしていたと言うこの御堂も今は堂守さえもいない。
 世は戦国。下克上、諸国の武将互いに鎬を削り、覇を天下に示さんと太兵を擁して、人馬の動き物々しく、具足に身を固めて駆回る時であった。
 甲斐に起こり、信濃に上杉謙信と地盤を争奪した武田信玄は、四方を蚕食しその覇を我が上州にも延ばし、ジリジリと南方より神流川を渡りその先鋒は烏川を隔てた対岸の山地、根小屋に砦を築き上州経営の計を立て、隙あらばと待機していた。
 倉賀野も目睫にあって正に虎視眈々の地であった。
 やがて来るべき運命も迫りつつあった。
城主金井淡路守も、城門かたく鎖して常にこれに備えていた。武田勢何者ぞ! これに一指も染めさすものかと、警護の武将を下知して怠らなかった。

 遂に時が来た。
 それは闇の夜、妖雲低…
「葬頭川ばあさん恐かった  狸の金玉ハ畳敷・・・・・」
 何と言うグロテスクな俗謠であろう。葬頭川ばあさんと言えば泣く子も黙ると聞いているから、余程恐いものの化身に相違ない。
 その葬頭川ばあさんと狸の金玉とが、どういう因縁のあったものかは分らない。その猟奇な婆さんの正体と言うか、偶像と言うか一目見てびっくり! 頭に真綿帽子は殊勝であるが、女だてらの大あぐら、魔性を含んで物凄く柄になく真っ赤に染めた口は逆しまに割れて妖魔を思わせる風体、養報寺の位牌堂の奥深く残されたこの偶像を訪ねる小心者の度肝を抜くかと怪しまれる。
狢がよく人を化かすという話は、随分多く聞いております。
 お湯のつもりで肥溜の中へ入った話や、饅頭だと思って馬糞を美味しそうに食べていた等、随分滑稽なことです。
 「こんな馬鹿らしい話があるものか。」と、言うそばから、その人がまた狢に化かされていた等全く皮肉なものも有ります。

 これに似た伝説が、ここ養報寺の狢にあったのでした。この伝説はむしろ矢中とか中居と言った他の近村の人達によく言い伝えられているのです。
 
 さて一体どんな伝説でしょうか。
 その昔、養報寺にも狢がおりました。この狢は人を化かして、頭をぐるぐる坊主に剃ってしまうと言う不思議な狢でした。そしてまた限って人を化かすというので、人々はこの狢の事につい…
まむしが人をかじると言う事は聞いていたが、まむしが寄り集まって、今度は誰が誰をかじる番であると、かじる蛇とかられる人とが定まっていたと聞いては、全く驚かざるを得ない。
 相談の結果、槍玉に上げられるものこそ、いい迷惑である。誰がその相談の様子を突き止めたのか?
まむしの血祭りに上げられる者が年に幾人もあった後の事であろう。
   倉賀野が繁華であった頃には、この附近の村人は物の大小を問わず、よく買い物に出掛けて来たといわれます。特に町の北にあたる矢中、中居の方からは相当繁く通っていた様です。

 この中に多造さんと言う大変剛胆な人がありました。どんな事にも驚かないし、人の嫌がる事でも平気でするし、強いて危険な所などへ入って見たりして、この人のなす事は、全く普通の人から見れば乱暴とも言いたい程、無茶な事をする人でした。こんな様ですから、夜など遅く酒を呑んで帰る事は決して珍しくはなかったそうです。
浅間山古墳の中には金の駕籠(かご)があって、この古墳の周りを三回息をしないで廻ると、自然に、その金の駕籠が出て来て、その人の所有になる。と、
 昔、並木に天狗と称する忍術者がいて、姿を隠して、時折往来の人々をなやまし、悪事を働いていたという。最後は子供の無邪気さに術が破れて、遂に囚われの身となったと言う。
その昔の並木は随分樹木も大きくその繁みも深かったに相違ない。
 永泉寺本堂の西に、本堂と並び続いて小さな古めかしい墓石がある。

 倉賀野城最後を飾った城主金井淡路守の標である。ここには金井氏一族、家老等の墓もある様だが、一番西にある見るからに妖気を漂わして、奇怪な感をもたせるものがある。眼も口もあり、鼻さえあるが人の顔とも思われず、いつどこから見ても自分の顔ばかりをねめつけている様に思われてならない。誰いうとなしに幽霊石と言った。
 朧月夜に見る老松には、無限の詩情があるものだが老松が女郎松などとニックネームを取って、薄気味悪い夜鳴きをしたり、うらめしやと、乱れた髪の毛を口にくわえ、痩せ細った蝋の様な手を互い違いにして、少し上目に下げられ、生臭い風を伴ってヌーットお化けの姿に変わるとなると、詩情どころか只事では済まされない。
 正一位大々儀式倉山稲荷大明神(しょういちいだいだいぎしきくらやまいなりだいみょうじん)、

 随分長い厳めしい肩書きの稲荷様です。京都の伏見稲荷の総本家まで行って貰い受けて来たのだそうです。

 こんな偉い御稲荷様が、今の長賀寺山の上にあって、その昔は随分豪勢なものだったといわれます。
 倉賀野がまだ宿場で賑わった頃のこと、宿場筋だけは非常に開けてもいたし賑わったが、街道から直ぐ裏の方は、大木続きの林や森、その上、とっころどころに塚が散在していたとのことです。取りわけ、今の下町の街道北は、全く文字通りの森、林、そして塚の連続であったといわれております。

 このうちで一際高く、大きかったのが今の長賀寺山でした。寺は…
 その昔、主なる街道のところどころには、土饅頭の様に盛り立てられた塚を数える事ができた。
 エッサホイサの駕籠かきや、草鞋脚絆に道中笠のその頃の旅人の、唯一の道しるべとして織田信長の頃に造られたのがこの一里塚の由来である。

 ここは倉賀野町今の上町、町を外れ様とする所に安楽寺がある。この寺を隔てる事西へ約一町、中仙道を挟んで南北に高さが一丈余、面積約二畝歩位の塚が両側に一つずつある。その塚の上には枝振りのこれは又何と美しい樅の木が枝をさしのべ、南北両側に向い合って中仙道を西へ東へ旅行く人の目標とされていた。
 やがて時移り、時代の進むに従ってこの一里塚も次第に取り崩される事になり、明治二十四、五年の頃までは…
倉賀野を岩鼻へ通ずる今の砂利線から中仙道へかけてのあの附近一帯は、明治その初め頃までそれは物凄い薮つづきであった。その砂利線の近くに石の戸棚と言うのがあり、その昔藤原の某(なにがし)という者がここに住居していたといわれている。
その人も何時しかいなくなってその後はいたずらに狐狸の棲家となった。所がここは非常に人里にも遠く昼尚薄暗い陰気な薮の中でもあった為、誰一人として訪れる者もなかった。
 その某のいなくなってからは殊に貉が人に化けて、時折は道行く人をかどわかし悪戯などをするというので、誰いうとなくそこを貉山(むじなやま)と呼ぶようになった。
 そのまま明治の世に入りこの砂利線に鉄道が敷かれる事となった…
五穀の神、農業の神として御庚申様を祀る風習は、昔も今も変わらないが、  この御庚申様を鬼門除けにしたということは、さていつ頃からの事でしょうか。
 ここ下町の御庚申様は、その昔倉賀野城の鬼門除けに立てられたものだという、そして多くは南面しているのに、こればかりは北向きになっている。
何十年か前のこと、八幡裏に大蛇が出ると言う奇怪な言い伝えがあった。しかもその大蛇を見ると必ず大病をするか、あるいは運悪い人は死んでしまう等、  不思議な伝説である。この大蛇には、幾匹かの子蛇がいて、その蛇が時々八幡境内に遊びに出て来るという。しかしはっきりと見た者は無いらしい。時々子蛇の抜け殻を持って来て置くと、その家は次第次第に繁盛して、魔のさすこと等絶対に無くことには五穀を扱う百姓さん等では魔除けには申し分のないものとして、非常に欲しがった。それ故、この近くの人々は、一生懸命、手に入れ様としてあせったが、そう容易に得られるものではなかった。これを見付けるには、どうしてどうして命懸けの仕事だった…
今から百年も前の事だったでしょうか?

 町の南の方に大変頭の禿げたお爺さんがおりました。よく頭の禿げた人の事を子供は薬缶頭(やかんあたま)等といいますが、ちょうどこの頃は家々の燈火がランプだったので、このお爺さんの事を、ランプ頭ランプ頭と悪口を言っていたのだそうです。
古い事においてはこれ程古い薬師様が他にあろうかと思わせる程、苔むし、ひび割れのした古めかしい薬師様が、ここ養報寺の七佛薬師様です。

 倉賀野町の下の方に薬師堂という地名があります。そこに何百年も前から安置されて、眼病一切に御利益あるとして、大衆の信仰を集めていたが、明治の初め頃、今の長賀寺山に移されたのである。

 それからしばらくここにあったが、再び養報寺へ移されて現在の位置に据えられたのである。
 この薬師様には小さく切った紙へ、「め」という字を一字書いて上げて置くと、どんな眼病でも直ぐ治ると言い伝えられ、ごく最近までは、よく薬師様の頭の上や、肩などに、「め」「め」と書いた字が載せられてあった。

 今では殆…