三五、上町一里塚(かみちょういちりづか)

 その昔、主なる街道のところどころには、土饅頭の様に盛り立てられた塚を数える事ができた。
 エッサホイサの駕籠かきや、草鞋脚絆に道中笠のその頃の旅人の、唯一の道しるべとして織田信長の頃に造られたのがこの一里塚の由来である。

 ここは倉賀野町今の上町、町を外れ様とする所に安楽寺がある。この寺を隔てる事西へ約一町、中仙道を挟んで南北に高さが一丈余、面積約二畝歩位の塚が両側に一つずつある。その塚の上には枝振りのこれは又何と美しい樅の木が枝をさしのべ、南北両側に向い合って中仙道を西へ東へ旅行く人の目標とされていた。
 やがて時移り、時代の進むに従ってこの一里塚も次第に取り崩される事になり、明治二十四、五年の頃まではその姿を留めていたが、その後ようやく掘り返されてあるいは畑地となり田となり現在の様な立派な耕作の土と変わってしまった。松並木に土蔵造りに昔の面影を色濃く留めるその頃の倉賀野宿場、その西入口に当たって一里塚の形跡を尋ねても美しい

樅の枝振りもその位置をすらもはっきりと知る事が出来ないのである。

場所は、安楽寺の少し高崎寄りで、街道の両側にあったということです。その一里塚は、江戸日本橋から二十六里(102km)目だったそうです。

上町西交差点付近