三四、長賀寺稲荷
正一位大々儀式倉山稲荷大明神(しょういちいだいだいぎしきくらやまいなりだいみょうじん)、
随分長い厳めしい肩書きの稲荷様です。京都の伏見稲荷の総本家まで行って貰い受けて来たのだそうです。
こんな偉い御稲荷様が、今の長賀寺山の上にあって、その昔は随分豪勢なものだったといわれます。
倉賀野がまだ宿場で賑わった頃のこと、宿場筋だけは非常に開けてもいたし賑わったが、街道から直ぐ裏の方は、大木続きの林や森、その上、とっころどころに塚が散在していたとのことです。取りわけ、今の下町の街道北は、全く文字通りの森、林、そして塚の連続であったといわれております。
このうちで一際高く、大きかったのが今の長賀寺山でした。寺は社寺合併の際、養報寺へ移されて既になくその後は人跡全く無く、思うがままに茂った樹木雑草は、狐狸の棲家として申し分ない所となっていた。
沢山の狐共が棲むようになったのも、それから間もない事、そして狐共は山の頂に穴を掘って、附近の家畜や野鼠を餌食としていた。
「狐に手を出すと、必ずその祟りがある。」とて、人は決してこれを責めなかった。否むしろ大切過ぎる位にし、遂には神として信仰の対象とまでなった、だから狐の大将悠長なもので、山の上から道行く百姓を見下しながら、
「何しに行くぞ百姓よ。」といわんばかりの顔付きで狐の機敏さにも似ず、毎日毎日、のたりのたりと動いていた。
この狐どもが当時の人々に、よく乗り移ったとかいうので、寄り寄り相談の上、山の中腹へ立派なお宮を建てた、時々参詣者が狐の喜ぶ
油揚げを持って行った。その油揚げを穴場近くに置いて拝んでいると狐が出て来てその油揚げを持ち込むのが見えたという。
評判は評判を生んで、稲荷大明神の旗が段々と数を増し、往き来の人も日一日と多くなって来た。
二月の初午には、このお稲荷様の祭り日である、世話人とか責任者とかいう人々さえも出来、旗をくれる、赤飯を炊いて出すといった具合で、それはそれは賑やかであった。
この御稲荷様は誰にもよく乗り移って、不思議がられた、そして到底人間の力の及ばない不可思議な言をいわせたという、それが大人とばかり限らず、子供に迄、よくのったという事です。大人の留守の時など、子供達がこのお宮の中へ入って、ちょうど祈祷者が唱える様な事を真似ていることなどもあつた。
それはある日の午後のこと、いつもの様に集った子供達が、五六人車座になって語り合っていたが、やがてその中の一人が、御宮の奥から幣束(へいそく)を持出して来た。それから手拭で目を覆い、手と手の間に幣帛(へいはく)を挟み、両手をしっかと合せて顔の高さに持ち上げてから、さて、次の様な文句を唱え出すのであった。
「あさ山、は山、羽黒の権現、ならびの稲荷の大明神、かみしみ言わずに、中はべんするおかまの神様、祓い給え、清め給え、稲荷みゑみため、カンゴンシー、ソンリーター、コンターケー祓い給え、清め給えと申す。」
と、声高らかに。二、三回繰り返すのであった。
すると不思議や、この子供の全身には激しい痙攣でも起ったかと思われる様に、ぶるぶるっと固くなって震え出すのであった。幣帛は確と握ったままである。時々大きく震え又小さくなる。緊張し切った声帯からは、この世の人とも思われないひすばった声を出した、間もなく幣帛を持ったまま直線的に倒れた。
側にいた四、五人の友は、びっくりして、名を呼び叫びながら、あるいは揺すり、あるいは動かしたが、倒れた子供は容易に元の子供にならなかった。泣き出す子供も出て来た、下駄を持って逃げ出す者もあった。一番年長の一人が
「下町の御嶽おばさんを呼んで来い呼んで来い。」と、叫んだ、他の一人は青くなって走って行った。
間もなく、おばさんをたのんで来たがおばさんは何の事もなげに
「何だ、のったんか、お稲荷様がのったんだろう。心配はないよ背中へ犬と言う字を書いてやりなさい、犬、犬、犬と一生懸命字を書きなさい。」
子供達は、何の事だか少しもわからなかったが、おばさんのいう通りに犬、犬、犬と幾回も幾回も指先で、倒れた友の背中へ書いてやった。
おばさんは、「もう良かろう。」と、いって子供達を離してから「もうこんな所へ来て、悪い事をしてはいけないよ。」と、こういいながら、まだ倒れている子供の背中をドーン、ドーン、ドーンと三つ程叩いた。そして四つ目の手が下され様とした時、ウッーと苦しそうなうめきと共に起き出して来た。
こうして間もなく元通りにはなったが、こんな事があってからというものは、
「めったな事は出来ないぞ。」と、一層大切にする様になったという。
願掛けに来る者もいよいよ増して来た。特に宿場町としての倉賀野には客商売が多かった。宿屋の主人、女将さんが、石段伝いに上って来ては祈願をこめた、それはいうまでもなく客人の足止めであった。
不思議な事に、今日は何人客がある、明日は又何人と、ピタリピタリと、当てたと言う。
何々屋、何々楼等書き出された大きな行燈、堅固な石宮等、それはそれは沢山並べられた。そして色取りどりに美しく、実に整ったよいお稲荷様だったということである。
この当時より程経てから色々の都合で、このお宮も養報寺へ移される事になった。
町の青年団の力で遂に移し終わったが、それからというものは、どうした事か人足も次第々々に減って来た、その後年を経ること幾星霜、今は全く顧みる者もなく淋しく養報寺門の中、根無し松の東に、当時のお宮が独り昔を語っている。正一位大々儀式倉山稲荷大明神の最後の姿である。