十七、榛名入沼木部駿河守奥方の位牌

倉賀野を烏川一つ隔てて南に阿久津村、この村に続いて木部村がある。今からおよそ三百五十年程前、ここに木部駿河守範虎(きべするがのかみのりとら)と言う殿様があった。そして烏川以南の地にその威勢を振っていました。

ところがちょうどこの頃、甲斐の武田信玄が次第に上野国に軍兵を進め、深澤、吉井の砦を落し、河内、塩川城も続いて落し、更に木部、山名、根小屋に迫ってまいりました。この事をいち早くも予期していた箕輪城主長野業政(ながのなりまさ)は、やがては我が居城にもこの勢いの及ぶことを恐れて、万全の計を立てたのであった。とりわけ衆目を引いたのは、業政に十二人の娘があったが、それぞれ近城に嫁がせて縁先とした事である。そして業政が芋蔓の芯となって、その蔓の先にはあまたのふくらみを持たせて、そのふくらみ即ち腹心を手中に収めていた。木部駿河守もそのふくらみの一つであった。業政の第九娘を嫁として入れたからである。

 こうして武田方に対する警戒は少しも怠らなかったが、知勇兼備の猛将信玄の大軍を迎えるには淋しかった。ここ木部城にもようやく憂色の濃きものがあった。武田方は連戦連勝の威勢をもっていよいよ激しく攻めたてて来た。
 最後の運命が刻々と迫る。
 流石に木部城も衆寡敵せず押寄せる大軍を防ぐに術なく、城兵は討死あるいは四散し、あわれ城主木部駿河守範虎は城と運命を共にしたのであった。城主すなわち夫の自刃!早くも急を知ってその室業政の女は幾人かの腰元にかしづかれて、暮色ようやく迫る黄昏時、父母のいます箕輪の城へ、歩みも重く馴れぬ夜道を運んで行った。おののきやつれた身と心とは、ともすればよろめきがちであった。
 
 一国一城の奥方若妻が人目を忍んで落ちて行くのである。
 極度の心身疲労もせめて箕輪迄行けば・・・・・と言う目的があればこそ続くのであった。ようやく箕輪の地にも近くなった。途中武田方の厳しい警戒も避けて芝村まで来た時だった。

絵

女は愕然色を失った。そして女の吐息は熱く大きかった。
 ああ、運命の皮肉さ! せっかくここまで歩み続けて辿りついたものを、今一息と言うのに懐かしい父母のいます箕輪の城は、炎々火を吐いて天を焦がしていた。
 
 箕輪城十五万石 落城最後の瞬間である。

 乾き切った女の眼からは涙一つ出なかった。

 夫駿河守範虎が城と運命を共にしたのもつい先程のことだった。その一つでさえ負い切れない痛手であったのに、懐かしい城は今目前で紅蓮の炎に包まれている、あの猛炎に逃げ迷う将士の姿も浮べて見た、否、それよりも、もっともっと深刻なものがあった、父母の最期である。夫の死、父母の死、そして城は焼き尽くされた。

湖

儚い自分の運命をどれ程頼りなく思った事でしょう。選ぶべき道は自ら定められたに違いない。力なくなく脚を運ばせ、箕輪の城も側に見て、いつとはなしに榛名の湖水近くに来ていた。
 湖水の辺に立って澄み切った湖面をいかに美しく、心ゆくまで凝視していたことか。
 
 父母の死、夫の死、今の悲境、そんな事はすべて遠い昔の夢になっていた。神の様に澄んだ心になっていた。しかもどこまでも空虚であった。
 風一つない湖面は満々と水をたたえて、そこには逆さに写る女の姿があった。
 不思議!不思議! そこに写った女の姿の下半身は全く龍体に化していたではないか。
 そしてこの龍体蛇体が女にとってはたまらなく恋しく思われてならなかった。そこでとうとうその姿を慕って湖底深く入って行ってしまったのである。

竜

二人の腰元は大変忠義な者だった。奥方が湖水に入られたのを見て、驚きかつ悲しんだ。
 いつまで待てど暮らせど奥方の姿はもう二度と見出す事が出来なかったのである。二人は茫然と湖面を凝視していたが、やがて相談でもした様に音もなく湖中へ入ってしまった。

 奥方は龍に化身したのである。そして榛名の湖の主となられたのであると言われた、二人の腰元は蟹となったのである。そして今でも奥方に付き添っているとか伝えられている。この奥方は龍に化身したところより「龍體院殿天生澄眞大姉(りゅうたいいんでんてんしょうちょうしんだいし)」と位牌の表に記され裏面には「榛名入沼長野氏娘」と書かれ今、倉賀野町永泉寺内の田口家のお位牌堂の奥深くに秘められてある。

永泉寺

また一説には
 奥方が腰元を連れて榛名神社に参拝した事があったと言う。
 その時、湖水近くで休んでいると、急に湖の水が欲しくなって、近づいて飲もうとするとそのままするすると中へ入ってしまった。これを見た腰元は大変驚いて、付き添う者の申し訳なさに、帰る事も出来ないで湖水に入って蟹となった。そしてせめて湖中でも清め様と言うので湖中の木の葉等を挟み出していたと言うことである。
 この言い伝えを聞いて近くの村人達は、榛名山へ登る時、蟹を食べるとそれから5ヶ年間登山は出来ないとか、もし蟹を食べて5ヶ年たたないうちに登山したり、神社に参拝すると、その一身一家に必ず祟りがあるとて、今でも非常に慎んでいると言われております。

面白い言い伝えもあったものです。

戦国時代には武田信玄などと激闘を繰り広げ、武田家の上州進出を阻んだ長野業政の居城。
息子の長野業盛の時代に武田信玄の攻撃を受けて落城し、武田氏配下の内藤昌豊(昌秀)、さらに武田氏滅亡後は北条氏の支配化に組み込まれ、北条氏が豊臣秀吉によって滅亡させられると、徳川家の重臣である井伊直政の居城となりました。現在の遺構は、この井伊直政の時代に改修を受けたものだそうです。
しかし1598(慶長3)年に井伊直政は高崎城へ移り、箕輪城は廃城となりました。

古地図
現地図