二十五、天神の松
世は戦国。下克上、諸国の武将互いに鎬を削り、覇を天下に示さんと太兵を擁して、人馬の動き物々しく、具足に身を固めて駆回る時であった。
甲斐に起こり、信濃に上杉謙信と地盤を争奪した武田信玄は、四方を蚕食しその覇を我が上州にも延ばし、ジリジリと南方より神流川を渡りその先鋒は烏川を隔てた対岸の山地、根小屋に砦を築き上州経営の計を立て、隙あらばと待機していた。
倉賀野も目睫にあって正に虎視眈々の地であった。
やがて来るべき運命も迫りつつあった。
城主金井淡路守も、城門かたく鎖して常にこれに備えていた。武田勢何者ぞ! これに一指も染めさすものかと、警護の武将を下知して怠らなかった。
遂に時が来た。
それは闇の夜、妖雲低く垂れこめて、颯ゝと吹く風は雨を呼び、雷鳴さえ伴った。
天雲益々深く、物凄き雷光、篠つく豪雨沛然として降りしきる烏川の水怒って岸を噛む。
時こそよし!武田方はこの機を逸せず、倉賀野城攻略の火蓋を切った。烏川の絶壁は容易に城によじ登る事を許さなかった。
武田方の面々は芋の葉を冠り、烏の濁流を泳ぎ城壁によじ登って、不意に攻めに入った。
(一説には、蓮の葉に姿をかくして川上から流れ流れて城壁にとある)
倉賀野方も防戦よく勤めたけれども、あまりの不意に術なく、敵に蹂躙されて、武将も多く討死し、あわれ城主は捕らえられて「釜ヶ谷」に首をはねられた。
一方、奥方は腰元を連れて城外を北へとのがれたが、足弱な女の身の哀れにも、追手の急に逃げる事もならず遂に天神の松の根元に、腰元と共に自害された。
その時奥方は、雄々しくも、腹十文字に掻切り臓腑を松の木に投げつけ、
「この怨みに、この松の芯は永久に立てさせじ。」と、言って息を引き取ったと言う。
その後間もなく松の芯は枯れ、年経ずして枯れ果てた。
それから後幾度か植え替えた松も不思議に芯が立たず、傘松となると言う。
最後の松は大きく広がって、一抱えもある傘松となったが、明治三十四、五年の頃、心許なくも切捨てられて、今は一片の倉賀野落城の哀話を秘めて、その影だになし。
又一説にその松は、敵方に伸びて奥方の怨恨永く、その松が枝にありしと言われている。
この松の木は、今の停車場の北裏、池の西北にあたる。
松の根元に天神の石祠があって、古老はよくそこに額づいたと聞く、今石祠は、中里の雷電神社境内の一隅にある。
一説に
「芋の葉をかぶって倉賀野城に、たどりついた武田方の一兵は水門を見つけて破る事ができた。為に倉賀野城は水攻めにあい、あわてふためく中を城郭に火をかけられたのである。」
又一説に言う。
「城郭に火のついたのは城中の上役に裏切者があって、火をかける以前、既に武田方と示し合わせてあったのである。」と。