十四、穴池の大蛇
それはある夏の日の午後だった。うだる様な暑さに身の置場所もなく、足にまかせて訪れるともなく、とある古老の宅を尋ねた。
老いたる身は、見るからにやせていて、この暑さでもかえって涼しい様にさえ見受けられた。
「どうです、面白いお話はありませんか。」
古老「毎々の日照りで、そればかりが苦になって話どころじゃないよ。」
「そうですね、この分では田も植わりそうもないね。」
古老「駄目だ駄目だこんな時こそ貯水池か大きな沼でもあってくれれば大助かりだが。」
「弱ったものですね。」
古老「今考えて見れば、あの穴池だって埋め立てしないであのままにして置けばよかったにな」
「穴池」「穴池!」
「面白い名だね、何か理由があるのですか?」
古老「ああ、それについてはね。」と、白銀の様なまつ毛をしばたきながら、次の様に呟くのでした。
「そうさ、今からずっと昔の事、ワシが子供の頃だったよ。よく老人から聞かされたものだった。あの御諏訪様の東北の方面が一帯の荒地で、そこに池があったそうだ。その池は、大昔ずいぶん広くて深かったと言われていたが、段々と狭められて来た。今はこの辺一帯の穴池といっているが、この「穴池」という言葉は狭くても非常に深く、落ち込めば穴の底の底までも引き込まれるものだろうよ、今でこそこの付近は豊沃な田や畑と変わっているが、今から五、六百年も前と言えば恐らく薄気味悪い程の荒地で、土地の高低はもちろんのこと、樹木の繁みは想像以上であったに相違ない。そうした中に池の水がどんよりと不気味な沈黙を続けていたものだろう。
そのうちに、この池の中に、それはそれは恐ろしい大蛇が棲む様になった。
否ずっと前からいたのを知らなかったのかもわからない。ところがこの大蛇が段々と齢を経て来るにしたがって、人々の迷惑になる様な悪事をするということでなァこれは何とかしなければなるまいと、寄り寄り相談した。そしてこの大蛇を退治してしまう事に決まった。
それから下町の人達が随分と苦心したあげく、ようやくこれを退治したのじゃ、ところが見事打ち取っては見たもののどう始末してよいかそれに困ってしまった。思案の末、万が一の祟りを恐れて、これは氏神の諏訪神社に預けた方がよかろうという事になって、ここへ奉納することになった。
こうして大蛇も神に祀られたとの事じゃよ。」ここまで語って来た古老は、「ごくり。」と、喉を鳴らしてから尚も言葉を続けるのであった。
「御覧になったかね、毎年の年の始めの神社祭に町の人達が年中行事として必ず拝殿の上の所に、大蛇の姿に似せた大きな七五三縄の挙げられてあるのを、あれはこの時の大蛇の霊を慰め様との氏子の心遣いからじゃ。いや昔の人は実に感心なものじゃ。」と、語り終えた古老の瞳は回顧の情一際濃く光り輝いていた。
「なるほどね、穴池!」不思議な名と思ったらやはりそうした面白いいわれがあったんですか、しばらくよもやまの談笑に時を過ごして私は帰った。
数日たったある日、この不思議な伝説を抱擁して黙している穴池の地が、たまらなく知りたくなった。そこで心ある者と共に尋ねて見た。
そこは全く私達の予想もつかない所だった。古老のいう御諏訪様の東北には違いなかった。詳しく言えば東北二、三百メートルの川堀りの南側で汽車道の北十四、五間と離れないところ、川堀に添って広さ十坪余の畠地がそれであった。
尚一段と低くなっているこの畠地の隅に三角形にとがった一坪足らずの草むらがある。ここが穴池の名の発生地であり、穴池の伝説を秘めて来た最後の姿でもあるのだ。流石にここだけは、せめてもの名残りにと拓かれていなかった。蛙の休み場所としては絶好のところだ。
こんなにも変わってしまったのか・・・・・
『嗚呼これか、ここが「穴池の大蛇。」の伝説を生んだところか』誰かが重ねていった。
しばし茫然!ようやく迫る黄昏時きびすを返して帰路についた。
また一説には「お手洗の池」に出て来る、飯玉八郎という人が彼の大蛇を退治したみぎり。その大蛇の頭部は飯玉神社に、尾部は下町諏訪神社に奉納したものともいわれている。
何れにしてもこの御諏訪様は、よほど蛇には関係したことがあると見える。
諏訪神社
倉賀野城主・金井淡路守が武田信玄の命により、信州の諏訪神社を勧請したと言われています。
諏訪神社の拝殿に飾る注連縄(しめなわ)は、大蛇をかたどってあったといいます。
その名残りでしょうか、拝殿の注連縄は白い布が巻いてある珍しいものです。
土俵
諏訪神社の境内には、驚くほど立派な土俵が設(しつら)えてあります。
毎年8月26日が祭礼日で、その日にこの土俵で「子ども相撲」が催されるのだそうです。